処女は清らかか?

我が母校の処女率は、高校の時ですら95%を優に超えていたと思われる。ひと学年200人弱のうち学年で彼氏がいる人は噂で聞いた限りでも5人、私が知らない人があと何人かいるとしても、その程度。彼氏がいない上に同年代の異性と出会う機会もない、学校は田舎にある、貞操教育が大層しっかりしている(韻を踏んでいる)と三拍子揃ってしまえば、もちろんセックスなんて言語道断、天変地異。時々出る現実的な性行為関連の話題といえば、保健体育か教員が妊娠した時、あとは数少ない彼氏がいる子の内の「宣教師」的立ち位置の子からこっそり(大体はここだけの話と言って30人くらいに話し、ほとんど学年中に伝言ゲームされる)聞くくらい。そんな私たち。

 さて、そのような状況を前提に考える。処女は芯まで清らかな生き物だろうか?残念。処女は性行為について考えても知ってもいないなんてそんなわけがない。世の中を探せばきっといるだろうが、私の周りだけ言えばめっちゃくっちゃに偏った性知識を大量に持っていた。清らかなのは穴だけだ。

処女から非処女になった今、むしろ非処女の方がよっぽど考えることは清らかだと思う。なぜならば、非処女の性的妄想の範囲は処女のそれよりも狭まって、ゴールが明確だからだ。しかもコンスタントに性行為を重ねていれば、性行為への反省や努力はあるにせよ、分からないことは殆ど無くなっていく。百聞は一見に如かずという言葉通り。サトウに関していえば、処女の時の方が妄想力豊かだったし、詳しすぎるほど性産業について詳しかった。未知なる世界への知的好奇心と現代の情報化社会が合体した時に起こるのは、とんでもない化学反応なのだ。

例えば。

高校の時の登校中、友人とのもっぱらの話題はBLと、性風俗についてだった。デリヘルやらソープやらのURLをラインで共有しては次の日に感想を共有する日々だった。果ては赤線、飯盛女辺りまでが議題にあがった。いわゆる普通の性行為の仕方には妙にあやふやな点が多く、例えばどう始まるのか服はいつ脱ぐのかゴムはいつ着けるのかいつ終わるのか終わった後の雰囲気はいかなるものなのかどの程度するものなのか時間はどれくらいかかるのか、そういった具体的なことについてはほとんど知らなかった。AVも生々しすぎて見たことがなかった。しかし具体的な写真や動画は見られないが、文章は読める。非処女になって気づいたが、世の中において性行為について書かれることは数多くあれどその具体的な内容描写はなされることが少ない。「彼女は濡れていて云々」「なんども腰を打ち付けた」という知ってる人には分かる描写はあるが、服を脱いだりシャワーを浴びたりをいつするかはわからないし。そのためにわからない具体的な内容は捨ておいて、BLとweb官能小説で蕾やら秘部やら熱く滾った彼自身やら胸の飾りやらという隠喩表現を知り、また特殊な行為や特殊な性環境について知ることでなんとか外の部分を埋め合わせて理解しようという気持ちになっていたのだと思う。

さてさて、歪んだ性知識を持って大人になった親しい友人たちはどうなったかと言えば。

歴々の中でも性風俗について異常なほどに話した友人たちは、軒並み現在高ランクの大学に通い、周りの他の友人に比べて全員非常に早く彼氏を捕まえた。好奇心が旺盛な人々だったから、性行為もなかなかに趣向を凝らしながら謳歌している。ただ、誰も性欲に溺れることなく慎ましやかに一穴一棒の道義を通して生きているのは、趣向を凝らすおかげでマンネリ化していないからではないかというのと、知識で性病の恐ろしさを知っているからなのではないか。知識欲は確実に歪んだ性知識を生むが、知識欲のおかげで無謀な性行為の恐ろしさを知ることもできたのだ、ということにしておこう。