「作文が出来た人」に贈る作文

 作文、好き?嫌い?
作文。中学生くらいまではよく書かされて、高校に入るとめっきりなくなる。時々書かされることがあるかないかくらい。それで大学に入るとぱったり。作文なんて言葉も死語になる。たぶんもう一生作文は書かない。その事実に気付いた時、私は心の底から喜んだ。サトウは作文が大嫌いだ。でも、ずっと嫌いだった訳じゃない。元々は作文が出来て、大好きな子どもだった。

「これから作文を書いてもらいます」「えー」小学生の頃、大方の同級生は作文の時間を嫌がっていたように思う。しかしそんな子どもの中ですばやく鉛筆を走らせて、あっという間に書き上げていた子どもがいた。それがサトウである。
  小学生の頃、先生に褒めてもらえたのは図工と時々音楽と、作文だった。授業内で発表すれば目の付け所が良いと言われ、作文は与えられた時間の1/3で書き上げてあとの時間は辞書を読んで遊んでいたが、ほとんどが毎年学校から発行される学内誌に載っていた。いい日記の例みたいので名前を出さずに読まれたこともある。「作文だけは誰にも負けない」というのがサトウの誇りだった。
 中学に入って、サトウの鼻っ柱は折られた。読書感想文の登場だ。文章?得意分野じゃん!カキーン。こんなに本読んでるのに。その中から選んだ1冊だからこんなに面白いのに!あーみんな読んで!読めばわかるよ!私の文読んでる場合じゃないよ!本読んで!って書き方じゃ選考を通るわけがなかった。作文の時は出来たどんな話も風呂敷を回収できないくらいまで広げて広げて社会の問題に絡めて、身近なことからコツコツ変えていきます、みたいにまとめる技術を忘れていた。ただただ好きな本で書こうとしたのが間違いだった。中1撃沈。クラス内選考にも引っかからなかった。作文自慢だったプライドに傷がついた。悔しかった。
 でも、この時はまだサトウは幸せ者だった。ただ自分の文章が人より優れていると思われないことを悔しがる勝気な少女だった。なんだこれ、読書感想文じゃなくてただの作文じゃん、と気付いて、勝てる、と思うくらいには。
 不幸なことはサトウが作文をスラスラ書ける少女だったことだろう。作文という土俵に持ち込んでしまえばそこは独壇場だった。臥薪嘗胆、中2の時には読みたくもない面白くもない課題図書を嫌々読んで、思い入れがないまま良いように内容を使って勝手に解釈して作文を書いた。学内選考を通過し入賞した。佳作として。やっぱりね、作文じゃん。いぇーい。ただただ1年ぶりに文章が評価され賞に選ばれたこと自体が誇らしかった。しかし、表彰状を持って帰ってお風呂に入って1人になった瞬間に、なぜか身体の中がひんやりした。喜びなんてどこかに行ってしまった。なんで佳作なんか取れちゃったんだろう。偶然とれたから冷めたのではなかった。なぜかプライドがズタズタだった。作文を出して賞を取るべきではなかった。恐ろしいことをしてしまった。読書感想文に作文を出したってことで賞を剥奪されるのではないかと怯えた。一方で、そんな訳ないじゃん。あーあ、つまんないなと感じる自分がいた。
 佳作だったのが物足りなかったのではない。むしろ佳作にでも選ばれたというのは奇跡である。今でもあの文章であの時学内選考を通ったのは謎だ。何度読んでもつまらない文章。載った学内誌は本棚の奥に埋めた。中学生になった私は、小学生の時からの自分の狡さと文章の薄っぺらさに気付けるくらいには成長していた。この作文で賞が取れた(初めて学外でとった賞だった)ってことは、自分の気持ちなんて書かなくても(自分の気持ちなんか書かないほうが)大人のウケを狙える。今回は完全に狙って作文を書いたけど、これまでだっていっつも自分の心境を書くことよりそれを読んだ大人がよく書けた文章だと考えるようにと心の底では思ってたんじゃないか?いや、思っていた。しかも大人たちはその薄っぺらさに気付きながら自分を褒めていた。学内だけならまだしも、学外でも、つまり外に出たって。それは完全に自分に対する侮辱だとさえ思えた。大人たちに自分が良いように使われて汚されたと感じた。数秒して、その怒りは自分に向かった。大体いっつもいっつも自分は周りの望む文章を文字にして書いていただけじゃないか。自分で考えるなんてしやしないで。なっちゃんが作文の書き方が分からなくて、遠足の行程を家を出ました。からみんなと駅で別れました。まで順を追って書いていくだけの文章で10枚の作文用紙を使い切って先生に渋い顔をされているのを冷ややかに眺めながら4枚で起承転結をつけて綺麗に収めた私の作文は、小手先だけの技術で書かれただけに過ぎなかった。「小学生らしく」という周りが望んだ枠の中で、それっぽい言葉をつかいそれっぽい(ちょっと背伸びしたような)考えに見えるように書いただけだった。きっとこれから先も私はこうやって周りの思うがままの文章をコピーしていくだけで一生懸命に文章を書くことなく生きていくんだろう。一生懸命考えることなく。命は大切だからって死刑反対の文章を書いた数秒後には被害者の人権を声高に訴えた死刑賛成の文章を書く。自分の思いなんてこれっぽっちも存在しなくて周りに追従する、童話に出てきたコウモリみたいに汚い奴。そう思ったら湯船の中で涙が止まらなかった。汚い自分に嫌気がさして、このまま浴槽に沈んでしまおうかと思った。
 作文は身についた習慣のようなものだったから、そこから特にいきなり書けなくなるようなことはなかった。しかし、自分の薄っぺらさに気付いた上で書く作文はつまらなかったし、もう教師が望むような中学生らしくてみんなのお手本になるような作文は書けなくなった。どう足掻いても自分は薄っぺらい人間だし、何ならみんなが苦しんで作文を書いている間にサラサラと指先だけで終わらせていた自分は考える力だって劣っているし、確固たる思いも言葉が溢れ出す感覚なんて味わったこともないし、本当に優れた文章を書く力なんてないし、今まで褒められていたことは全部仕組まれていた罠みたいなものだと思ったらバカバカしくなって、きっとみんなと同じだろう考えをみんなと同じような切り口からみんなと同じような文体で書くロボットに成り下がった。そうなったら当然作文を褒められることもなくなって、作文は書くものから書かされるものになっていった。「作文を夏休みの宿題にしまーす」「えー」同級生と一緒にブーイングするようになった。サトウは高校1年の春を迎えた。

今も作文は苦手だ。作文を書くときれいにまとめなければいけないという長年の習慣に苦しめられるし、書けば書くほどやっぱり薄っぺらい。作文が出来た人に問いたい。今でも作文書けますか?出来ますか?好きですか?